尾崎豊の名曲「僕が僕であるために」。今日はこれについて語りたいと思います。
僕が僕であるために
この曲の一番のところです。以下に自分の解釈を載せます。
「思っていた現実とは異なり失望するが今ある環境で生きていかなくてはならない。生活の中で人を傷つけることを避けて、優しい言葉をかける。しかし、それは相手は優しさと捉えられず、結局は傷ついていく。じゃあ、何が正しいんだ。その答えがわかるまでこの街で暮らし続ける。」
特に好きなのが歌詞内の「優しさと口すれば人はみな傷ついていく」のところ。自分にとっての優しさと相手が描く優しさとの齟齬が出てきているところで、自分の生活でもよくあります。特に、大学の先生からのアドバイスはよくよく考えれば優しさのつもりできつい言葉を言っているけれども、学生はそれを優しさではなく「嫌味」でしか捉えれないということ。
君が君であるために
この曲の二番のところです。以下に自分の解釈を載せます。
「別れるけれど君をとても愛していた。しかし、それは君に届いているかはわからない。その自分が認識できない感情は非常にわがままだ。慣れる日々でも君を傷ついていたかもしれない。だって明日も教えることができないから。君も僕同様に君が持つ正しさを探すであろう。それがわかるまで君もこの街で暮らし続ける。」
僕とは異なる正しさを持ち、それで別れてしまう。僕が彼女を愛していても、彼女はその愛の正しさが僕のとあっていなかっただけ。恋愛の終わりもこのような気持ちの変化かもしれませんが、そういう感情ってやはり振られた側は「わがままだ」と思ってしまいます。こんなに接しても相手にわかってもらえない。この切なさがとても伝わってきます。
正しいものは何なのか
これが重要だと思います。個々が持つ「正しさ」によって傷つけ、関係を断つところまで来てしまう。しかし、これは必然的だと思います。自分が持つ考えと今これを読んでいる読書の考えが同じなわけがありません。じゃあ、わかってもらうにはどうすれば良いのか。それは、今の環境で自分の考えを少しずつ変えながら生きていくしかないと思います。それが「自分自身を変える」ことだと思います。千里の道も一歩からとあるように、少しずつ変わりながら、今住む街で歩みませんか?
正しさを許容するには、人との関わりが必須だ。