まあ、なんというか。
久しぶりに書いていきますか。
というかこのブログを作って多分5年以上経っており、収益がないのでネットという海に土地を構えていたことになる。そのためか、その知見が5年振りに活かせれる時が来たと思うと、数万円の価値はあると思う昨今である。
とまあ、何というか。
前回書いてから何と3 年の月日が経っているらしく、当時はまだ社会も知らない青二歳だったので、当時抱いていた異性との初夜のようなワクワク感や無知っぷりがかわいい感情がある。ひどい様だが、ある種の羞恥的若人の典型的だったと思い、反省している。そう、あの時は何も分かっていなかったのだと。3年以上経つとそれを重く実感する。
とまあ、何というか。
気づけば転職を何回も繰り返し、大学というアカデミアで学んだ研究の同胞たちがやっと社会に慣れてきて、結婚や子育てといったセカンドライフステージにステップアップする中、私は停滞している。外側から見れば何やっているんだろうという風に見られてもおかしくなく、異邦人である。
とまあ、なんというか。
こうして書いてみると、意外と筆が進む。
2023年はプログラムを書きシステムを開発していくエンジニアに成ろうとしたが成れずに発狂して飛んだ。
その後リスタートまでに想像以上に時間がかかり、パン工場での勤務やチラシの投函作業、なんといっても無職という不名誉なモラトリアムを過ごしたことによる自尊心はかなり傷つかれた。本当にあの時期ほど地獄と思ったことは今現時点ではなく、今あるのも奇跡だと思うほどだ。新宿と中野のフロンティア上にある築50年のアパートで一人しくしく泣きながら職も見つからず図書館で進んでいたあの、挫折というか放浪期間というか。つまり、大学院卒かつ奨学金免除を獲得するぐらいの名誉が半年も経たずに折られ、つらかった。
2024年は営業という道?を歩むために安い給料で何とか暮らしていた。正社員昇格やマネージャー権限レベルの業務とかもできたので、時間を投下すれば何かしらの成果は出せること。研究員時代で培われた教訓がビジネスにも応用できることを知り安堵した年でもある。ただ吹けば飛ぶような会社に属していたこともありそれ相応の代償を受け、ついには鬱病という精神疾患を患い、2025年現在も療養中である。
2025年は療養と並行して、研究やら経営やらバッグオフィスやら営業やら企画やら。。。
と忙しい?日々を過ごしてる。あまりにも数年前には予測していないような人生を歩んでおり、当時の自分が見ても大丈夫か?と思うほど異端である。本当に異邦人だ。
この異邦人という言葉はカミュの異邦人から来ている。異邦人はムルソーという男性が世間に迎合せず抗った物語であり、これが実存主義と共鳴していたと言われている。今現在私は実存主義について傾倒しており、大衆迎合主義にはアンチな立ち位置である。つまりはポピュリズムというものが嫌いだ。現代思想がそのポピュリズムの中で各自の意見で連なっていこうということだと私は認識している。しかしそれはあまりにも高尚かつ知性主義側面が多すぎるため、〇〇という有名人やら教授やら政治家やらが言ったことが正しい!と判断しSNS上では不毛な自慰行為をしている人々で溢れかえっている。現代思想で賛同できるものもあるが、やはり自分を律した姿がなければ生きていけない世の中だと再度認識している。その上で自己の価値を高め、あるべきものに対して自分はどうしていくかという実存主義に惹かれているのだ。まあ当時もツァラトゥストラを読んでいる私だったので、一貫している気もする。
という感じの思想を語り、如何に愚かなことで阿鼻叫喚している世の中に対して、どうやって生きることが正しい?否ましな生き方ができるかについて考えていかなければならない。
非常に難しいが、そのような哲学的観点とかもこのブログという手記で書いていこうと思う。
「嘔吐」という作品に敬意を添えて。
