隣の芝は青いということわざがある。
それは「自分のものよりも他者のほうがよく見える」という意味だ。
しかしそれは当たり前であり、何ならそのことわざに「いつも」と加えたいと思うほどだ。
他者と見比べる日々
「あいつ優秀だな」
「僕に持っていないものを持っている」
と他者に対して羨ましさを抱く心情を抱く。
そしてたいてい今の自分と比較してこう思う。
「どうして自分は持っていないんだろうか」と。
あくまでも自分の意見として、これはしょうがないことなので気にしないことが吉だと考える。
しかし、わかっていても自然と他者と比べてしまう。
すると、それは人間としての本能かもしれない。
人は昔から生き残るために他者を見て作戦を立て、戦や戦争をしてきた。
よって、他者を見てしまうことはある意味しょうがないことだろう。
しかし、これには「羨ましさ」は無いように見える。
ここで違いが出てきた。
そう、「悲観する」か「分析するか」の違いだ。
悲観と分析
これはたいてい相手を見て自分に対する自身をなくし、諦めてしまうことが該当する。
つまり、現状を受け入れやるせない思いを持ち続けるが、特に動き出さない。
一方、「分析」は他者に勝るためにどうすれば良いか考えるため他者を見る。
つまり、現状を受け入れつつ他者に勝るための行動をする。
ネガティブかポジティブかの違いのようにも見え、より簡単に見ると動くか動かないかだ。
ただ指くわえて「いいな〜」と言って終わるのか、「何が良いんだ」と観察して分析するのか。
それって人生においてかなり大きな分かれ道だと私は思います。
隣の芝を研究しよう
これに尽きる。
今自分がやっている就活がこれに該当するが、高学歴がこの会社行くからいいな〜ではなく、自分が行くためにはどうすれば良いのかを考えるのだ。
たとえ失敗してもそれは表面上の失敗で、経験上では成功である。
まだ自身の就活が終わっていないので机上の空論だが、就活が終わった時そう思いたい。
自分がどう思うのかが重要だと思う。他者を見て萎縮するならその程度のことよ。